報告
入来花水木会  
令和5年度 第1回
「県の景観アドバイザー制度による入来麓の視察」の実施結果
              日時 : 2023年07月23日(日) 13:30 ~ 15:30
              場所 :入来院重朝氏宅
              アドバイザー : 西嶋 啓一郎氏(第一工科大学工学部建築デザイン学科教授)         
              参加者 : 第一工科大学工学部建築デザイン学科学生2名、入来花水木会員8名
                  入来歴史研究会1名


先ず、(1)アドバイザーの西嶋先生が、「重要伝統的建造物群保存地区における課題」について、大内宿(福島県南会津郡下郷町)と知覧における事例を講義された。つぎに、(2)第2回入来麓たのしいまち歩き(2023年5月21日(日))に参加した第一工科大学工学部建築デザイン学科の2名の学生さんによる「重要伝統的建造物群保存地区における景観まちづくりについての一考察」と題する発表があった。(3)そのあと、質疑応答形式で座談会を行った。


重要伝統的建造物群保存地区における課題について
         西嶋 啓一郎先生(第一工科大学工学部建築デザイン学科教授) 
Ⅰ.大内宿
 福島県南会津郡下郷町の山あいに位置する大内宿(おおうちじゅく)は、江戸時代に宿場町としてにぎわった集落で、現在も20数軒の茅葺き屋根の民家が立ち並ぶ。江戸時代、会津藩主の保科正之によって会津城下と下野(しもつけ)の国(現在の日光市今市)を結ぶ下野街道が整備され、大内宿はその宿場町の一つとして開かれた。大内は若松へは約4里半の距離に位置し、参勤交代で昼食をとるための休憩の宿場であった。

 下野街道は脇街道の一つであり、江戸幕府が参勤交代の脇街道通行を厳しく取り締まるようになったため、大内宿を通る参勤交代は数10年しか続かなかった。参勤交代が通らなくなると収入が減り、以後人々は炭焼きなどで食いつないでいった。
 明治以降、交通路の変化により開発を免れ、昔の面影を今にとどめながら、大内宿はほとんど忘れられた存在になった。1960年代、高度成長時代、近くにダムの建設が始まると、住民はダム建設工事に従業し現金収入を得るようになる。

(1)保存活動
 1967年(昭和42年)9月、当時武蔵野美術大学造形学部建築学科の学生だった相沢韶男(あいざわつぐお)という青年が大内集落を訪れ、「まるで江戸時代のまま」残されている茅葺き屋根の集落に遭遇し、圧倒される。相沢は、早速、宮本常一(民俗学)に報告し、保存の必要を地元住民に呼びかけると同時に、外部へ情報発信していく活動を始めた。

(2)伝建保存地区の指定
 1975年(昭和50年)の文化財保護法改正によって重要伝統的建造物群保存地区制度が導入されると、福島県は大内地区に保存地区選定申請を打診したものの、住民は生活の近代化を望んで拒否した。茅葺屋根をトタン屋根に葺き替えたり、家屋の増改築をしたりするようになった。
 そんな中で、町長は、大内宿の昔ながらの景観を守った方が良いのではないかという意向を持っていた。地域の人たちによる検討会ができ、何人かが、ダム工事が終わった後は、観光でやっていける町になったら良いのではないかとぽつぽつ考えるようになり、賛成と反対が50対50ぐらいになった。しかし、全員一致で賛成でないと伝建指定は受けられない。1981年(昭和56年)4月にやっと国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。

(3)県内有数の観光地へ
 1985年(昭和60年)に年間約2万人であった観光客数は、バブル景気が始まると急増し、1990年頃には年間50万人、2007年(平成19年)には100万人を突破。県外からの観光客が90%を占める県内有数の観光地となった。
 1970年頃までは農家で冬場男たちは東京に出稼ぎに出ていた。それが観光業に目覚め、土産を出したり、食事を出したりして、一軒で年間一億円を売り上げるようになった。雪の降らないタイから雪景色を目当てに、ツワー客がいっぱい来る。ネギを箸のように使ってそばを食べる看板メニューは、近年になって観光用に考えられた、いわば、思い出を売る商売である。
 景観や文化財の保護を目的とて「売らない、貸さない、壊さない」という住民憲章を作成。この3つの原則のもとで伝統的な景観が守られ続け、現在に至っている。

大内宿   冬景色 
(4)これからの課題
 観光をやるにも、少子高齢化によって、働き手がいない。跡取りがいない。大内には地元に中学校がない。高校は会津若松市か福島市にしかない。一億円稼いで大学にやっても戻ってこない。20数軒ある茅葺き屋根の民家3軒ほどの空き家がある。「売らない、貸さない、壊さない」という3原則の住民憲章を変えざるを得ないときが来るかも知れない。自助努力だけではやっていけない。第2の新しい相沢がやって来て欲しい!

Ⅱ.知覧
(1)知覧における問題点
 入来麓と同様に鹿児島県にある知覧の伝統的建造物群保存地区は、景観を守るため、第一種低層住居専用地域に指定されている。そのため、土産物店は営業できるが、店舗面積50平方メートル以下で、居住していることが条件となる。また、宿泊施設は営業を認められていない。
 このため人気の観光地にもかかわらず、土産店やホテルは一軒もない。飲食店も用途地域の指定前から営業する店がわずかにあるだけである。

(2)対策
 そこで、南九州市は、第一種住居地域に変更することで、オーナーが外から店に通うことを認めたり、ホテルなどの建築を可能にしたりすることを検討している。


重要伝統的建造物群保存地区の課題における景観まちづくりについての一考察
   藤崎竜誠さん(第一工科大学工学部建築デザイン学科4年)、木野田采音さん(同2年)      
1.目的
入来麓重要伝統的建造物群保存地区を対象に、現在の同地区が抱える課題について明らかにする。
2.方法
(1)入来麓の風情は何が原因になっているかを知る。
(2)入来麓の「デザインコード」を探る。
 デザインコードとは=地域の景観を構成する要素の「配置」、「色」、「形」、「素材」、「生物種」における空間の秩序を形成する「視覚的な約束事」のこと。
(3)このため、フィールドワークとして、「第2回入来麓たのしいまち歩き」と関連イベントである「インスタ映えコンテスト」(2023年5月21日(日)に参加した。

3.結果
(1)入来花水木会というまちおこし団体による持続可能なまちづくりの取り組みが確認された。
(2)一方で、空き家対策など住民レベルでは解決が難しい問題があることがわかった
(3)入来麓を次世代に伝えるために以下のことが必要だと思われる。
 ①歴史的建造物の正確な実測図を制作し、その建造物の由来や意匠、材料、構造形式の学術的記録を蓄積すること、および、職人への聞き取りなど。
 ②地域と産学との連携をはかり、建築物の価値を伝える冊子や物を販売し、多くの人に入来麓を知ってもらう活動。

尚、本研究は、2023年09月16日(土)~17日(日)に琉球大学50周年記念館で開催される「日本観光学会九州・沖縄支部大会令和5年度沖縄大会」において発表されます。


得られた知見
(1)少子高齢化の進行や都市部への人口集中などによる空き家の増加が問題になっている中、重要伝統的建造物群保存地区においてもそれらの問題は例外ではない。
(2)重要伝統的建造物群保存地区では、国の制度的支援はあるが、伝統的な技法を必要とする維持管理が必要で、技術を持った職人の減少や修繕する際の費用負担などの課題がある。
(3)住民の間では、修繕するよりも解体した方が合理的な選択となり、歴史的建造物の解体が進む可能性がある。
(4)空き家対策や店やホテルの建設などのために、都市計画法上の用途地域や住民憲章の決め事などの変更が必要になるかも知れない。
(5)住民主体のボトムアップ型の努力には限界があるため、国や自治体の制度的なトップダウン型の支援が必要であるが、トップダウンがボトムアップの考え方を知っているかどうか不明である。どうやって、両者を織りなしてハイブリッドでやって行くかである。
(6)まちづくりにおいて、新しい技術の導入、例えばドローンによる住民サービス、DX(デジタル技術による仕組みの変革)やICT(情報通信技術)を活用した観光振興などがこれから必要になる。

 西嶋先生の講義   学生さんの発表 
 その他のキーワード、話題
(1)背後に山城があって、その前に麓が広がり、湾曲した樋脇川に囲まれたデザインコードは、大枠でいうと、鹿児島城下の構成に似ているように思われる(西嶋先生)。
(2)長方形が美しく見える縦横比に黄金比というのがあるように、馬場(道路)の幅と石垣の高さの比が良い(西嶋先生)。
(3)鹿児島は武士(家臣団)が住んでいた地区の道路はみな「馬場」といい、商家の地区の道路は「通り」といった。鹿児島市内の高見馬場、千石馬場や納屋通りなどがそうである。入来麓の「風の通り馬場」「山河馬場」「赤城馬場」は近年になってつけた名前である。昔は道路ではなくミゾみたいになっていた(本田さん)。
(4)石垣の丸石を武器、いわゆる「石つぶて」として使ったということではないのか?(西嶋先生)。石つぶては聞いたことがない(本田さん)。
(5)石垣にある切込み(堀りつぼ)の目的には諸説があるが、武士が隠れる場所ではなかった。本来、薩摩武士はそんな卑怯なことはしなかった。馬糞などを掃き集めて、馬場を綺麗にする掃溜めだっただろう。つまり、環境美化しつけの一環ではなかったか。現在は、犬ノ馬場でしか見られないが、他の馬場では道路幅の拡張によって無くなったと考えられる(本田さん)。
(6)石垣の植栽は、茶にイヌマキといわれるが、イヌマキは近年になって植えられるようになったものであり、元々は、「ゆす」の木(イスノキ(柞の木)とも呼ばれるマンサク科の木)であった(本田さん)。
(7)お互いがお互いを知るという意味で、鹿児島県下の4つ伝建保存地区の連絡協議会の活動が望まれる(西嶋先生)。
(8)木が茂っていて、山城の本丸跡から麓の全景をみることができない。ドローンを使って、本丸跡からの鳥瞰を撮影したら良いのではないか(米森さん)

(9)アイデアコンテストというコンセプトのまち歩きに参加したことがある(藤崎さん)。

(文責 : 入来花水木会事務局、2022.07.26) 
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