入来花水木会
〒895-1402(重要伝統的建造物群保存地区)
鹿児島県薩摩川内市入来町浦之名130番地
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 入来麓
樋脇川の自然石を使った独特の玉石垣とその上に植えられた茶やイヌマキなどの生垣に囲まれた武家屋敷は、周囲の山々と一体となって、あくまで静かに佇んでいる。薩摩藩は、領地を外城(とじょう)とよばれる 113の行政区画に分けて統治した。武士団を本城(鹿児島市)近辺に集結させず、領地内に分散して統治に当たらせ、外城における統治の中心地を麓(ふもと)とよんだ。入来麓も薩摩藩麓の一つだが、近世になって整備された街路と地割が旧態をとどめ、屋敷割りもよく残っていて歴史的価値が高いとされ、2003年(平成15年)12月、知覧武家屋敷群、出水武家屋敷群に次いで、鹿児島県で3番目の国の重要伝統的建造物群保存地区(武家町)に選定された。

保存区にされているのは、東西約 400m、南北約 500mの19.2hrの範囲で、中ノ馬場(なかんばば)と呼ばれる南北に走る大通りを境にして東半分は東西に走る5本の道路によって整然と屋敷割りされ、西半分は湾曲する路地に沿って不整形に屋敷割りされている。現在、ほとんどの屋敷跡には民家が建てられ日常の生活が営まれている。立派な長屋門などは残っていないが、家々の門から屋敷をのぞくと、門から玄関への幾重にも折れ曲がったアプローチや庭の古木、石蔵などに当時の武家屋敷の面影がしのばれる。重要伝統的建造物群保存地区といえば、お目当ての観光スポットとして観光客が絶えないのが普通であるが、入来麓は、全く観光地化されておらず、週末や観光シーズンでも観光客でごった返すことのない、いわば玄人好みのする保存地区といえよう。そして、保存地区内を散策すれば、例えば鮎の投網を打っている人や無音シャッターカメラでカワセミを観察撮影しているカメラマンに遭遇する、入来麓はそんな重伝建地区でもある。
 
庶流入来院家の茅葺(かやぶき)門    入来麓の屋敷割りの風景 
 
清色城跡(お仮屋跡・鹿児島藩第三郷校跡)    旧増田家住宅
入来院
鎌倉時代、現在の東京都渋谷一帯を治めていた渋谷光重は、宝治元年(1247年)の合戦(執権北条氏が御家人三浦氏一族を滅ぼした事件)の恩賞として、北薩摩の祁答院・東郷・鶴田・入来院・高城の穀倉地一帯の地頭職を与えられた。6人の男子があった光重は、長男重直のみを本領の相模国に留め置き、他の5人を北薩摩に下向させた。5人の兄弟は、それぞれの地名を名字として、守護島津氏と拮抗する 薩摩の雄族となり、渋谷五宗と呼ばれた。入来(現在の薩摩川内市入来町)の地に入
った渋谷氏は、入来院と名乗り、居城として山城・清色城を築き、その清色城を背景に山裾に近世の地頭館(お仮屋)を置いた。東を流れる樋脇川との間の平地を中心的な武家集住地として集落が形成された。

入来院氏は、16世紀中期頃に島津の軍門に下るが、近世は島津大名家御家門の一つに数えられ、鎌倉以来明治維新までの 620年余りに渡ってその社稷(しゃしょく)を全うした。また、薩摩・大隅・日向の三州の統一を果たした第16代島津家当主・島津義久、その弟で、関ヶ原の戦いの敵中突破で知られる島津義弘、そして最後まで秀吉に抵抗し自害に追い込まれた島津歳久らの母(雪窓夫人)は、入来院11代当主入来院重総の娘だった。
 
入来文書(いりきもんじょ)
「入来文書」をご存知じでしょうか? その名前を知っている人でも、「入来文書」とは、入来院家の古文書を指すのだと思われているのではないでしょうか。実際は、イェール大学の故朝河貫一博士が、昭和4年に発表した比較法制史の論文「The Documents of Iriki」のことを「入来文書」といいます(入来院貞子著「貞子の語る入来文書」より要約)。
朝河貫一博士(2)
福島県二本松市出身で、日本人で初めてイェール大学(Yale University、アメリカ合衆国のコネチカット州ニューヘイブン市に本部を置く、1701年創設の私立大学)の正教授となった朝河貫一博士(1873年<明治6年>~1948年<昭和23年>)は、イェール大学から日本に留学していた1919年(大正8年)、九州を廻って調査していた時、鹿児島の一山村入来村で 500年以上保存されていた入来院家の古文書を発見した。それは、朝河博士の求めていた資料、①多様で長期間に亙るものである、②大きすぎない領土、③継続した家系、この3つの条件を満たすものだった(1)。 朝河博士はそれを基に9年間研究して、1929年(昭和4年)に論文を完成。イェール大学とオックスフォード大学より「The Documents of Iriki」として発行された。それが「入来文書」である。すなわち、朝河博士は、英訳した入来院家の古文書を資料として論文に添付したが、それが「入来文書」ではなく、入来院家の古文書に詳細な注釈を加えるかたちで日欧封建制比較を試みた、朝河博士の論文「The Documents of Iriki」そのものを「入来文書」という。簡単にいうと、「入来文書」は、入来院家の古文書を史料に選び出し、ヨーロッパと日本の封建制度の違いを述べつつ、西洋の研究者
が容易に利用できるように翻訳し、説明を加え、制度的話題のいくつかを要約して述べたもの、といえる(1)。  
2005年(平成17年)横浜市立大学名誉教授矢吹晋氏が初めてこの膨大な論文を邦訳、出版されました。彼は福島県の朝河博士の出身校・現安積高校の後輩であり、朝河貫一顕彰協会の役員でもあります。中国経済がご専門ですのに、誰もなし為し得なかった快挙をなさいました。私貞子がこれから語ろうとしている話し(著書:貞子の語る入来文書)は、殆どこの邦訳の「入来文書」に基づいています(入来院貞子・著「貞子の語る入来文書」より)。
□The Documents of Iriki ― 入来文書
  朝河 貫一・著/矢吹 晋・訳、柏書房(2005年8月発売)
□貞子の語る入来文書、入来院貞子 ・著、高城書房出版(2012年5月発売)
 
  【参考図書及びサイト】
(1)入来院貞子 ・著、貞子の語る入来文書(高城書房出版、2012年)
(2)写真出典 : 朝河貫一 - Wikipedia

【参考となるサイト】
 ・写真旅紀行 玉石垣の武家屋敷群 - 鹿児島県薩摩川内市入来麓
 ・写真旅紀行 春、入来麓の風景 - 鹿児島県薩摩川内市
 ・旅行記 旧増田家住宅 - 鹿児島県薩摩川内市
 ・旅行記 入来神舞 - 鹿児島県薩摩川内市
 ・国歌・君が代の源流を探る - 歴史を訪ねる旅(15

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