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入来花水木会 | ||
| 令和7年度 第1回 「県の景観アドバイザー制度による入来麓の視察」の実施結果 -入来麓の景観まちづくりと観光振興- |
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| 庶流入来院家の茅葺(かやぶき)門 の葺き替え工事が、2025年10月28日に着工し、11月4日に完了した。今回の葺き替えは、九州一円を中心に約 200棟の茅葺に携わってこられた阿蘇茅葺工房(熊本県阿蘇郡高森町)さんに依頼して実施された。大内宿(福島県下郷町)の茅葺家屋について研究して来られた西嶋啓一郎先生のアドバイスにより、大内宿の「茅葺学校」の方に阿蘇茅葺工房さんをご紹介頂き、今回の葺き替えとなった。そのような経緯を踏まえ、茅葺門 の葺き替え工事が完了する一日前の11月3日、葺き替えの現地で、「入来麓の景観まちづくりと観光振興」をテーマに、西嶋先生にアドバイス頂いた。 下記は、西嶋先生の講話を聞き取り、事務局で文字起こししたものである。各節のタイトルは、内容に照らして事務局で適宜付けさせて頂いた。なお、文中の( )で括った部分は事務局の注釈である。 |
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| Ⅰ.持続可能な景観まちづくり ~ 大内宿に学ぶ | ||||||||||||||||||||||
| 1.大内宿の歩み 大内宿は、会津若松から少し南会津の方へ下ったところに、20軒ぐらいが打ち捨てられるように佇んでいた集落であった。三代将軍家光の弟で、会津藩主になった保科正之(ほしなまさゆき)が参勤交代の宿場町を会津の近くにつくろうと、自ら段取りしてデザインした町だった。風水に基づいてかなり精密な施しが色々とされていて、建築学的にも面白い集落である。30年間ぐらい参勤交代に使われたが、別の街道ができて参勤交代が通らなくなるとお金が入ってこなくなり、ゴーストタウン化した。 冬は雪が2mぐらい積もる。農作地がない。建物は立派だけど、打ち捨てられた村となった。今から 400年前の1630年~1640年代から、炭焼きや蕎麦栽培で細々と暮らしてきた。明治になると、今度は福島県の県庁所在地が福島に移り、鉄道も福島の方を通る。大内宿は再び打ち捨てられることになった。小学校、中学校も分校で、児童・生徒数も数えるほどであった。人口 100人ぐらいの村は、冬になると、ほとんどが出稼ぎにでた。 ところが戦後になって、大内ダムがつくられるようになると、出稼ぎのかわりにダム工事に出て小金を稼げるようになった。1630年代からずっと、茅葺の同じ家に住みながら暮らしてきた大内宿の人たちにとって、一番大事な屋根を「結い(ゆい)」で葺き替えながら助け合ってきた。今年はだれだれの家で、来年はだれだれの家と、順番を決めて葺き替える。それが何百年と続いた。 1950年(昭和25年)に建築基準法が制定されると、茅葺屋根の新築ができなくなった。1967年(昭和42年)に、武蔵野大学の建築学科4年生の相沢という学生(相沢韶男(つぐお)氏)が、たまたま大内宿に行き当たった。相沢が大内宿の写真をすぐに師匠の民俗学者の宮本常一氏に送ると、朝日新聞で紹介され世間に知られることになった。1970年代の半ばから国鉄がディスカバー・ジャパン(Discover Japan)というキャンペーンを張った。それがNHKと朝日新聞で取り上げられ、大内宿が報道されるや観光客が殺到した。 箱根など、同じく宿場町だった他のところでは、以前より少しずつ観光客が来ていて、家が建て替えられたりしていたが、大内宿はとにかく貧しかったため、建て替えはもちろんトタンをかぶせることも、建物をいじることさえできなかった。そのため、本当に昔のままの茅葺集落が残ったのである。 2.伝建地区指定へ 文化庁が、そういうところを保存しようということで、「伝統的建築保存地区」(略して伝建地区)という制度を1975年に制定して、1980年から運用を開始した。この制度の指定を受けるには住民の全員の賛同が必要だった。「この制度の指定を受けないか」と投げかけられた大内宿の住民の半分は、ダム工事に出るようになってやっと人並みなな生活ができるようになった、今のままで良いという意見で、あと半分は、いやダム工事は20年したら終わる、もし観光でやっていけるのなら、我々の生き方が変わるのではないという意見だった。意見が真二つに割れ、論争が2~3年続いた。 それを一つにまとめたのが、当時の下郷町の町長だった。下郷町の商工会もバックアップする、町をあげて支援する。人口一万人の下郷町が町をあげて、町のほんの一部でしかない人口 100人ほどの大内宿を支援するというのだから、特別なことであった。大内宿が伝建地区に指定されれば、温泉地である下郷町にとっても観光の目玉ができるという思いもあった。そうして大内宿の全員が伝建地区指定に合意し、1981年(昭和56年)に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定された。 3.「結い」から「茅葺学校」へ 伝建地区に指定されてからが大変だった。客商売の見習いをやらないとならないし、20軒のうち何軒がトタン屋根になっていて、トタンをはがして、茅葺屋根に戻す必要があった(今でも1~2軒がトタンをかぶっている)。茅葺屋根と家の構えの凄さが、大内宿の〝売り〟であった。茅葺屋根の葺き替えは、当時まだ残っていた「結い」でやっていくことになったのだが、1990年~2000年代になるにつれて、その「結い」がだんだん衰えていく。 なぜかといえば、若者が外に出ていくからだった。中学校の分校も閉鎖になり、中学校に行くには下郷町まで下りていかなければならないし、高校に行くには会津若松まで出ないといけない。時代が豊かになると、会津若松にでた若者が帰ってこなくなる。そうしたことを背景に「結い」の組織も衰えていき、「結い」によって自分たちで茅葺屋根の葺き替えがだんだんできなくなっていった。そこで考えたのが、分校跡地を茅葺屋根の技術を継承する「茅葺学校」にしようじゃないかということだった。 当時残っていた、茅葺屋根を葺き替えできる人で、一番上手な人がリーダーになった。しばらくは、村の人だけを教えていたのだけど、外部から自分にも教えて欲しいという人が出てくるようになり、「茅葺学校」がだんだんと継続されるようになった。今は結いによる葺き替えはなくなり、「茅葺学校」で学んだ職人さんが茅葺の葺き替えをやってくれるようになった。今ここの茅葺門の葺き替えをされている阿蘇茅葺工房代表の植田龍雄さんも今年、行かれている。 4.大内宿の現状と課題 大内宿は、観光地として弾け、炭焼きで生活した農家が、飲食店やお土産屋で、一軒で年収1億円を稼ぐようになった。しかし、1億円稼げるところでも2軒の空き家が出たと地区の会長がいう。後継者がいないそうだ。どうして後継者ができないかときくと、「売らない」「貸さない」「壊さない」という、40年間守ってきた定款(住民憲章)が足かせになっているという。「壊さない」はともかくも、「売らない」「貸さない」のために、よそから空き家に入ってくれる人を募集するわけにゆかないのである。 5.曲がり角にきている伝建制度 40年経って、制度を考え直さないといけないのではないか、これから先50年~100年の大内宿を考えた新しい憲章を考えないといけないのではないかと地区会長はいう。1980年に始まった伝建制度が40年~45年経って曲がり角にきている。兵庫県の伝建地区では、町並みの風情を残しながら外部の人を呼んできている。IT企業を呼んできて、新しい産業を興したりしている伝建地区もある。
鹿児島県内には4つの伝建地区があって、一番の急先鋒が知覧である。知覧は町並みのほかに特攻隊の資料館があり、観光客がくる。ところが、宿泊施設とか飲食の立ち寄り場が少ない。宿泊はほとんどないのではないか。宿泊施設は、建築基準法で用途が変わる。第一種低層住居専用地域だったら、旅館とか宿泊施設が建てられない。たとえば旅館だとまずフロントが必要であり、消防法によりスプリンクラーの設置が義務付けられるなど、ものすごい縛りがある。レストラン等の飲食店も何平方メートル以上だったらできないという建築基準法上の縛りがある。住居地域になるとその縛りが緩くなる。そこで、知覧は用途変更を願い出た(2025年4月1日をもって、知覧上郡地区の一部が「第一種低層住居専用地域」から「第一種住居地域」へ変更されている)。 6.歴史や文化への思いの共有 大内宿の歩みをみるに、住民はいろいろな考えを持っているが、何かがきっかけになって、とにかく一つになったということが、大内宿がすばらしい町並みと景観を残し、多くの人を呼び集めるようになったことに繋がったのは確かである。ただし、それからまた新しい変化の兆しがあって、今のままでは続かない。つぎの世代にまた何かを考えてもらわないとならない。実は、大内宿では次の世代が少しずつ育っている。30代、40代の、新しい大内宿の担い手が育ちつつあるのを感じている。 大内宿の「玉屋」(ネットには「分家玉屋」とある)という喫茶店をやっている30代、40代の人たちが、打ち捨てられた畑にもう一回蕎麦を植え直したりして、自分たちで大内宿の特産をつくろうという取り組みを始めている。実はこの喫茶店は、1999年(平成11年)に父が火事を出してしまった家だった。延焼を免れたはといえ、大内宿で火事を出すことは村八分同然のことだったが、村人は思いとどまらせた。そのとき「結い」がまた発動し、村人全員が焼け残った廃材を集めてきて、もう一回家をつくり直してくれた。 家を再建してもらったことにものすごく感謝していたその家の娘さん(現在の「分家玉屋」の運営責任者・佐藤華那さん)は、高校卒業後東京のケーキ専門学校へ入ってケーキ職人になっていたが、何とか恩返ししないと感じ、大内宿に帰り、再建直後からしばらくは食事を提供する店だった家をくら替えして、2018年(平成30年)にスイーツ専門喫茶店を始めた。ケーキにそば粉を入れたり、いろんな試みをやったりしている。 この「玉屋」の事例において、人々はたまたま一つにまとまったのだろうか。大内宿の宿場町を築いた保科正之が徳川の一派であったことや、それ以前の、この地には都からの流れ人が居たという伝統があって、そういう「魂」や「誇り」といったものが、そうさせたのではないだろうかという人がいる。心の中で「魂」や「誇り」といったものを共有して持っているということが、たとえ争いやいさかいがあっても、住民を一つにしてくれるきっかけになるのではないだろうか。 7.入来麓の取組みについて 上述のことを入来麓に置き換えてみると、入来麓には (1)渋谷一族の末裔、鎌倉武士という流れ、 (2)川内川からの物流(樋脇川の船瀬、琉球交易の名残を感じさせる石敢當の存在など) (3)古文書、入来文書 といった歴史がある。こういった入来麓の歴史への思いの共有が、入来麓の景観まちづくりへの取組みへの一体化のきっかけになってくれるのではないかと思う。歴史をもっと掘り下げて知ることが、カルチャリズム(culturalism)といって、本当の観光である。これから先の入来麓も、歴史の豊かな文脈からつくりあげていって欲しい。そのためには、お互いが持っている、歴史や文化に対する価値観というものが同じものであるということを、一回確認しておく必要があるのではないだろうか。
8.外部から人を呼ぶことについて 大内宿にも新しい考えの人がいて、NTT東日本の支社長に相談して、IT産業に空き家へきてもらい、大内宿の真ん中を通っている道路の地下に埋まっている光ファイバーを使ったら、便利なやり取りができるのではないかと考えた。しかし、「売らない」「貸さない」「壊さない」という住民憲章が足かせになって、外部から人を呼べない。兵庫県の伝建地区では、外部から人を呼ぶことをどんどんやっている。ただし、外部から人を呼ぶといっても、個々の歴史や文化をちゃんと継承してくれる人でないと困る。生活のすべてが全然違う人がやって来ては困る。そこは、住民がちゃんとみていかないといけない。 9.協議会の活用 ~ 価値観と危機感の共有 インフラの整備と文化の継承ということを取り上げて、新しい伝建地区の考え方を、県や国のレベルでやらないと、このままだと伝建地区は空き家になってしまう。伝建地区の制度は、その地区の文化や誇りを継承するためにつくったのではないのか、何のために伝建地区の制度が始まったのかという問題に立ち戻らねばならない。40年経ってわかってきたのである。制度というのはどんどん更新して見直されるべきものである。鹿児島県下の4つの伝建地区が協議会をつくって、声を上げる、どういうことをやっているのか、これからどうしたら良いのか情報交換をする、価値観と危機感を共有することだ。また、県内に百ほどある麓の協議会もあったらいい。 10.新たな格差と地方創生について 東京の企業に就職したら、大卒の初任給が年収 500万円という時代になった。新たな格差の時代になってきた。そういう時代に地方が生き残るにはどうしたら良いだろうか。もう一回歴史や文化の学びなおし、それと新しいIT産業を持ってくるということ。それをちゃんと、国や県で公的にやって欲しい。IT産業がどっとやってきたとき、歴史的・文化的背景を維持しながら、住民がどうやって受け入れるか、住民憲章としてきまりをつくっておく必要がある。
(1)葺き替え前の萱(かや)は太く、また藁(わら)が補充されていた。 (2)今回の葺き替えの萱は細く、藁の補充はされない。また、しばりの縄も異なる。 (3)雨水をより溜まりにくくするため、以前より棟の高さを上げて屋根の傾斜をよりきつくしてある。 (4)茅葺門の母屋側が北東を向いていて、より乾燥されにくいので、傷みやすいと思われる。 (5)大内宿の茅葺屋根もそうだが、4~5年ごとに部分的な葺き替えが必要になるだろう。 (6)工事報告書をもらって、保管しておいて下さい。
(1)茅葺門は、入来麓のランドマーク的建築物であり、入来麓の景観まちづくりおよび景観・文化の継承に欠かせない存在である。 (2)その茅葺門の葺き替えを、九州一円を中心に約 200棟の茅葺に携わってこられ、大内宿の「茅葺学校」とつながりをお持ちの阿蘇茅葺工房さんに依頼して実施できたことは、大変意義深いことだと喜んでいる。 (3)茅葺き屋根の経年経過をしっかりと確認して行きたい。 (4)持続可能な入来麓の景観まちづくりについては、入来麓の住民が、自分たちの歴史・文化に対して同一の思いや誇り、価値観を共有していることを確認しあう機会、方法を模索しながら、今後活動して行きたい。 |
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| (文責 : 入来花水木会事務局、2025.11.12) | ||||||||||||||||||||||
| 【参考サイト】 (1)今回の「県の景観アドバイザー制度による入来麓の視察」では、 2025年06月15日(日)に事前調査(茅葺門の現状の確認)を実施しました。下記のページにその報告があります。 → https://www.iriki-hanamizukikai.jp/report/report20250615A.htm (2)2025年11月04日に完了した庶流入来院家の茅葺門の葺き替え工事の着工から完了までの写真を、下記ページでみることができます。 → https://www.iriki-hanamizukikai.jp/report/report20251104.htm |
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